山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     満蒙開拓団の悲劇を忘れてはならない

2011年09月29日

中国黒竜江省方正県が建てた日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が8月5日から翌6日にかけて撤去された。方正県は旧満蒙開拓団の移住拠点であり、第二次大戦末期の1945年8月9日、旧ソ連軍の突然の侵攻により大混乱に陥り、約5千人の日本人開拓団員が食料不足や感染症を患い、非業の最期を遂げた地である。1963年にすでに方正県によって建てられた日本人公墓があり、今年7月に中国外務省の承認を得て、開拓団員250名の氏名が刻まれた慰霊碑が建設されたばかりであった。

今回の突然の慰霊碑撤去は、慰霊碑へ反発を持つ反日団体のメンバーらが赤いペンキをかけたり、ハンマーで一部を叩き壊す様子などがインターネットに掲載された。これが大騒ぎとなり、中国当局が方正県に撤去処分を命じたものと見られている。

反日は反政府デモだ

「日中友好の碑」とされてきた慰霊碑が政治的都合で簡単に撤去されるとはいかにも中国らしいことだ。しかし、なぜいま撤去されなければならなかったのか。これには中国ならではの国内事情がある。

まず、中国経済の構造的な不況で、インフレ、就職難など、現政権に対する人民の不満が鬱積している。次に人民による不満の矛先は表向き反日に向けられているが、本音は中国当局が標的だ。それゆえ中国当局としてはネット上での政治的発言には異常なほど神経を使い、すべて人民の不満を受け入れる構えだ。これは現胡錦濤政権には次の習近平主席候補にこれらの問題を持ち込ませないという使命がある。

中国共産党政権は、いつ、なんどき人民の爆発が起こるかもしれない。中国の歴史は人民の暴発が拡大して、権力が打倒されてきた。それゆえ、ネット上の人民の声に逆らわず、勢いを収束する手段として中国メディアが反日批判を展開し、中国当局は人民の暴発を牽制してきたのである。

国策としてこき使われた満蒙開拓団

さて、この満蒙開拓団の存在と経緯について述べてみたい。日本政府の満州移民計画は日露戦争の後、1906年頃から検討されていた。その間満鉄の開業で満鉄総裁の後藤新平は国策として50万人の満州への日本人移民を提唱。1932年の満州建国を経て1936年に広田弘毅内閣は150万人の満州移住計画を発表した。

満州へ移民した日本人は開拓農民であり、その数は27万人といわれている。開拓農民らは日本政府と関東軍の保護のもとに移民。さらに広田内閣は20年以内に100万戸の住宅を建設し、500万人の移住計画を発表する。しかし、終戦間際の昭和20年8月に旧ソ連軍が満州に侵攻した頃には、関東軍が撤退したために開拓農民らは置き去りにされ、満州計画は破綻した。

終戦直後、満州には約27万人の開拓農民がいた。終戦後11万人余が帰国したが、16万人前後が満州の地で命を落としている。満州人が親日的なのは満州の地で豊かな農作物をつくり、満州の農業発展に寄与したわが国先人に対する感謝であった。今日の方正県慰霊碑撤去で犠牲となった先人たちは無念の想いであろう。

満州は世界の最先端をいく農業国だった

戦前の日本国にとって、満州は日本の三倍の国土を有し、鉱物資源が豊富なうえに理想的な農業国であった。加えて肥沃な地質、気候・風土にも恵まれ、大豆やトウモロコシ、小麦、大麦、米、コウリャン、粟、絹糸、麻、綿花、亜麻、タバコなど様々な良質の作物が栽培された。牧畜産業にも適した土地で、牛、豚、鶏、羊、ロバ、ラバ、馬の大量飼育も可能であった。

しかし、満州国においてはなんといっても大豆の大量生産が国家経済を支える最大の収入源であった。満州産の大豆は、食糧としてのみならず、大豆油からマーガリンや石鹸、牧畜の肥料や飼料となった。当時の資料によると大豆の世界総生産高の60%・550万トンを生産したとされている。また、当時大豆カスを使って良質の米を大量生産する画期的な試みにも成功し、肥料産業に革命を起こした。これはドイツ、イギリス、デンマーク、オランダなど全世界から注目された。

貧困にあえぎ、満州に新天地を求めた農民たち

日本人農民の移民によって満州の近代化と農業改革は急速に進められた。当初満州人らは、開拓農民を快く思わない者が多かったが、次第に日本人の勤勉さに好感を持つ者が増えていった。しかしながら、当時の日本人農民がなぜ満州という遠い他国に移民したのか。筆者は幼い頃、両親から「日本の農民は代々貧しい家庭が多く、満州に新天地を求めたものが多かった」と聞いていた。

日本の農業では小作人たちが地主から農地を借りて耕作する。小作人たちはわずかな小作料をもらって貧しい生活を強いられるのだ。小作人たちは腐りかけた穀物を食し、副食は漬け物とみそ汁のみ。肉や魚を食すことは皆無で、テレビドラマの「おしん」さながらの想像を絶する貧しい生活環境であった。正月や来客があると鶏をつぶすことはあったとされるものの、小作人の子供たちは小学校を出てしまえば進学することもかなわない。それゆえ、満州に行けば地主になれるとの政府の呼びかけに多くの小作民たちが競って一路満州へと突き進んだ。

関東軍の傀儡国家に成り果てた満州

満州国はアジアの理想国家(楽土)を掲げ、西洋の統治ではなく、東洋の徳によって統治しようと、「五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)協和」「王道楽土」を理念として建国された。満州では、満鉄という巨大な国策コンツェルン会社のもと、農民のみならず鉄道、ホテル、学校、病院などにたくさんの民間人が住みついた。さらに関東軍司令部や各省庁が建設されるなど日本国の分身の様相を呈した。

しかし、満州国は国家としては名ばかりで、実際は関東軍の傀儡国家であった。関東軍は自分たちの別天地を作るために150万人の日本人を満州に移住させ既成事実化しようと日本人居住区を建設したが、軍には最初から日本人移民を守る考えはなく、国防上ソ連の侵攻を想定して国境近くに開拓農民を住まわせソ連攻撃からの防波堤とした。日本人居住者を防波堤に満州の安全と権益を守ろうとした。今思えば愚か者の知恵としか思えない。

居住者を防波堤に ~開拓団の悲劇

関東軍は満州の地にソ連が侵攻することを想定して防衛ラインを国境から後方の内陸部に配置した。ソ連との国境近くを開拓農民の居住区とし、国境近くに10~15歳前後の日本人の子供たちで構成される「青少年義勇軍」を配置した。まさに関東軍は子供たちまでをも防波堤としたのである。

国境近くに住む開拓農民は何も知らされず片手に鍬を、片手に銃を持ち、ソ連の侵攻に際して戦うように命じられた。しかし、建前では当時わが国はソ連と中立条約を結んでいるから大丈夫だと言い、日本政府は日ソ条約の信義を重んじ、条約を尊重するとして、開拓農民を説得したのであった。

ところが、終戦間際の8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦を布告。ソ連軍は満州に攻め入り、日本人移民とその家族、「青少年義勇軍」たちを殺戮し、略奪の限りを尽くしたのである。しかもソ連軍は関東軍約60万人を酷寒の地シベリア方面で強制労働させるため、満鉄を使い連行した。そして、日本人開拓農民とその家族はその事実を知らされることなく、死の逃避行が始まったのである。中国残留孤児など、今日に至る悲劇もここから始まった。

開拓移民の努力はいまも旧満州人の心に生きている

当時は、西欧列強の植民地支配による弱肉強食の世界であった。たとえばシナ事変と満州事変は表裏一体のものである。わが国はシナに対して侵略と破壊を目的にしたのではなく、すべて国際法、国際ルールに従って行動したことは周知の通りである。つまり、当時の国際政治力学と国際ルールを見据えた上で行動したことは日本人の道徳心であり、美学であった。問題は日本政府は軍部に引き摺られてソ連や中国を甘く見た戦略上の失敗であり、軽率のそしりは免れない。

わが国は、東亜の植民地解放を促し、東亜地域の秩序を確立した。富国強兵のためのインフラ整備と近代化にわが国の国富を注ぎ、韓国、台湾、中国の基礎づくりに貢献したことは記憶に新しい。現今に至るも、中国の近代化と発展のためのインフラに対してわが国はODA、円借款を行い、中国の経済発展に貢献してきたのは昔も今も変わらない。

満州開拓移民の悲劇は日本政府の国策による失敗であり、関東軍が移民を支えられず、満州を放棄したすべてのツケを開拓移民一人ひとりが命と引き換えに支払ったものだ。しかし、日本人移民は満州の地に溶け込み、新しい文化と近代化を開花させた。台湾と同じく、元満州人たちの親日的姿勢が先人たちにとってせめてもの救いだ。

次回は10月6日(木)