木曜コラム

山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     いじめ問題と学校崩壊

滋賀県大津市で昨年10月、私立中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺した。この事件をマス・メディアが大きく取り上げたのは、周知のとおりである。その後、滋賀県警は異例とも思われる強制捜査に踏み切った。この事件を切っ掛けに“いじめの実態”や学校の危機がようやく世間の注目を浴びる。

中学2年の男子生徒は加害者の生徒から「自殺の練習」までさせられていた。この模様は全校生徒が日常的に目撃していたが、学校の担任はおろか、他の教師や警察に到るまで“知って知らぬ振り”を決め込む有様だったと聞く。彼らは被害者である生徒を助ける意識もなければ、行動も起こさないという“事なかれ主義”であった。しかし、今回はついにマス・メディアがいじめ事件を大々的に取り上げ世間の注目を浴びたのである。

これまで陰惨ないじめの現場を目撃した同級の女子生徒の中には思い余って担任の教師や校長、警察に何度も訴えてきた。女子生徒らは教師が動くまで一歩も引かず言い分を通す事例が多かったと聞く。女生徒のしつこさに教師の中には仕方なく加害者生徒に一応注意を促すケースもあるが、大方は「知って知らぬ振り」を決め込んだ。教師らに被害者を守る意思と姿勢が見られず、まるで他人事のようであったと言う。つまり、生徒の傍若無人な振る舞いを招いた真犯人は誰なのか。生徒を教育する現場で白昼堂々と“いじめ犯罪”が行われていたのに、学校側はなぜ放置してきたのか。

たとえば、「中学2年の男子生徒がいじめられているのを目撃した女子生徒は担任の教諭に止めに入るよう訴えたが『そんなのほっとけ』と言われた」(読売新聞21日付朝刊)
現場を目撃した女子生徒が警察に相談に行ったが、「いじめは学校や担任教師の問題で警察がとやかくタッチできない」と断られた。これでは「自殺の練習」までさせられた生徒の行き着く先は自殺の本番しかないのではないか。

いじめ目撃生徒の告白

小中高校でのいじめの件数は、文科省の発表によると昭和60年で16万件のピークを迎えた。平成2年は約2万1千件に減少した年もあるが、その後平成18年は約13万件に復活。22年は桐生市の小学6年の女児が自殺した年で約7万件に減少。しかし、その後いじめ事件は手が付けられないほどさらに深く陰湿な状況が進行していた。

これまで、いじめが行われてきた実態について、目撃した生徒のアンケートや聞き取り調査の資料を総合すると脅迫、窃盗、器物損壊、暴行、恐喝、強要など単なるいじめから始まり、いまでは完全なる犯罪事件の様相を呈した。加害者の生徒らは男子生徒に対して、殴る蹴る、たばこの火を顔面に押し付けるなど、犯罪事件はますますエスカレートするばかりである。これらの出来事は全国で拡がりを見せる“いじめ犯罪”の実態に他ならない。

最近の中高生はひ弱と言われるが、頑固でわがままになっており柔軟性がなく、他人を受け入れない自我を演じている。一人の生徒が死の直前まで追い詰つめられていることを知りながら、教師がそんな生徒を放置するのは生徒の領域に立ち入れない恐さがあるからだ。このような結果を招いたのは、戦後、学校の教師が生徒に常識を教えず、道徳も教えなかったことに起因しよう。親も子どもにしつけをせず放置してきたのである。それゆえ、子どもたちは善悪の判断さえつかなくなったのであろう。今やしつけを教えず、常識・非常識の分別がつかない生徒を大量に生み 出している。生徒が感情をむき出しにするのも自由と人権であるから、何人もこれを犯すことは許されないと言う。これも「個人の尊厳」を尊重することであろうか。自らをコントロールする理性と規範・ルールを失った子どもたちの末路は学級崩壊から始まった。子どもたちにしつけを教えなかったツケを、今後教師らが払わなければならない。

教師による生徒いじめ

名古屋市内の中学の出来事である。筆者の知人の子どもがいじめに遭ったが加害者は教師であった。マス・メディアの報道は生徒らのいじめが中心であるが、実際の現場は教師らによる生徒のいじめが多いと聞き、筆者は驚いた。その中学の教師が生徒を退学させようと誘導していた。筆者は生徒の親に国会議員から直接校長に電話してもらえばよいとアドバイスしたのである。

国会議員は校長と教師に直接電話をしてくれた。翌日から教師の生徒いじめはピタリと止まった。それどころか学校側の生徒に対する扱いは180度変わったのである。彼らはこの問題が表沙汰になることを極度に恐れたからであろう。教師らの一部は加害者の生徒の行為を擁護してきたばかりか、自らもいじめに加わっていた。

学校の市民社会化で教育崩壊

筆者は「いじめ犯罪」の解決に教育委員会を始め、学校の教師や校長では何の役にも立たないことをこれまで執拗に指摘した。これを解決するにはマス・メディアが取り上げないと解決できないと述べてきた。このような事件が起こる度に文科省は伝統的な保守教育から「市民社会」に近づく教育の近代化路線を推し進めた。その結果、伝統や文化を継承する保守はなおざりにされてきたのである。生徒が他人を受け入れず、固くて狭い自我を持つのは自然の成り行きだった。

いじめの件数は実際に公表されている数字の数倍と言われている。これは学校側が教育現場を“市民運動化”の場とし、保守的な道徳心や規律を放棄した所以である。それゆえ、この10年間は全く別人に変わった生徒の行動に教師らが対応し切れなくなった。文科省と学校はいじめの原因を速やかに発見できるよう「子ども安全対策支援室」を設置したが、誰も期待すらしていまい。

文科省、教育委員会、学校現場は機能不全で都合の悪いことは隠蔽工作することでもみ消してきた。既に学校は「聖域」ではなく政党政治のイデオロギーの場に転落した。しかも日教組が学校を舞台に生徒の無能化を画策した成果は大きい。いくら調査機関を設置しても、日教組に支配された統治能力のない「教育委員会」が考える「再発防止」策に何の意味と効果があるというのか。

教育委員会不要論という真理

子どもたちは12歳までは人格を形成する大切な時期である。つまり、人間として人格の固まる過程というわけだ。この時期に学力の基礎となる“しつけ教育”を施せば、将来国を担うにふさわしい人間の礎をつくれる筈であった。しかし、我が国の教育界はそれを否定した。

戦後教育が行ってきたことは何であったのか。教育基本法では「個の尊重」のみが謳われてきた。つまり、子どもの「尊厳と個性」を尊重するという風潮は子どもにおもねる教育に他ならない。子ども中心主義の教育方針は子どもの個性と尊厳を高める筈だったが、頭でっかちの子どもを大量に産み落とした。このように子どもの成長に責任を持てない教育制度やゆとり教育が日本の教育を完全に歪めてしまったのである。

いまや、「教育委員会不要論」が言われ教育は自治体に任せればよいとの意見もある。しかし、この深刻で複雑ないじめ問題を行政に委ねることは、これまでの経緯から見てムダなことだ。これまで何度も文科省は「いじめ対策」を講じてきたが、何一つ解決されるどころか、却っていじめ犯罪は増えるばかりであった。

いじめ解決には民間の専門企業だ

いじめ問題を解決するには、これまでの文科省を頂点とする教育機関の改革では問題を複雑にするだけだ。昔は周囲の大人たちが子どもの行き過ぎを戒めてきたものである。学校の教師も「しつけ教育」には厳しかった。親も隣近所の人たちも子どもたちのしつけには親身になって協力してくれた。教育とは本来保守的な継承であり、民間人の助けが主流の筈であった。古い伝統的な儀式やしつけを伝承していくことで秩序正しい日本人として世界から賞賛されてきたのである。

現今、教育現場は教師らによる“市民社会”への運動の場となったが、これからは子どもの無能化と堕落から抜け出すことだ。この生徒を守るには、第三の調査機関や民間の知恵に頼るのも一つの方法だと思う。NPOであれ企業であれ加PM6:00害者と被害者の調整役となる専門の民間会社に委託するという考え方もある。緊急を要する事件には仲介者が加害者の親に会い、本人に言い聞かせる専門的解決方法が必要だ。いじめとは暴力による弱者いじめである。加害者の暴力には民間の知恵を借りて解決するのも一つの方法で民間企業の創出が必要だ。民間なら加害者の圧力に屈することなく適切な対応で迅速に抑止できる可能性が高い。子どもを苦しめる深刻ないじめには民間の専門企業の設立が急がれてよいのではなかろうか。これまでそうであったように官にできないことは民間に任せるしか解決案は残されていないのではなかろうか。

また、文科省もこれまでの経緯を見て限界にきていよう。今後は「有識者会議」の設置や民間に委託せざるを得ない状況がそこまできているといえよう。

次回は8月30日(木)