木曜コラム

山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     河村市長の南京大虐殺発言(1)

2月20日、名古屋市長の河村たかし氏が旧日本軍による「南京大虐殺事件」が事実上なかったとする発言を行った。これは、名古屋市と姉妹友好都市である南京市委員会のメンバーらが表敬訪問された際、河村氏が会談の席上で発言したものである。河村氏は南京で「一般的な戦闘行為はあった」としたが、「一般市民を虐殺した事実はない」と明言した。さらに南京事件に関しては、「いろいろな意見があり、のどの奥に刺さった棘のようなもの。私も南京に赴き、皆様と討論会をしたい。新たな研究成果も出ている」と持論を述べ、本発言は撤回しない考えを示した。しかし、日中間では公人が歴史発言を行えば日中両政府の執拗な圧力に屈し謝罪と謝罪文を書き、さらに賠償金を払って一件落着となるのが通例だ。

中国のマス・メディアは河村発言を激しく非難した。たとえば人民日報系の環球時報は、①河村氏の中国入国を禁止する ②名古屋市の観光旅行は取りやめる、との声明を発表。さらに南京市は行政当局の交流は当面中止すべきだと表明した。

一方、日本政府は、外務省の杉山晋輔アジア大洋州局長がコメントを発表し、河村発言は「日本政府の立場を代表したものではなく、日本政府の歴史認識が変わったわけでもない」と中国側に釈明。さらに藤村修官房長官は22日の記者会見で、「非戦闘員(一般市民)の殺害、略奪行為は否定できない。村山談話以来、政府の姿勢は変わっていない」と中国側の主張に同調した。

中韓の歴史観を鵜呑みにする日本国民の愚

河村発言に対する政府・外務省の答弁は、わが国が中国に忠誠を誓う従属国家であることを明白にしたものだ。わが国外務省は大勢が親中派であり、事を荒立てず「先送り」「事なかれ主義」が外交姿勢の基本である。中国の反日的歴史観を忠実に同調することで戦争を回避し、民主化を促すとの認識だ。

中国政府筋は河村氏に「侵略戦争の歴史の真相を否定し、中国の国民感情を傷つけたからには、必ず代償が伴う」と警告した。このような事態を招いたのは、中国の意に沿わない発言者に日中政府の連合体が圧力をかけ、発言者は潰されてきた。つまり、彼らは日本人は歴史は語るな、蓋をしろというわけだ。

産経ニュースによると「歴史問題をめぐる中国の理不尽な対応は今に始まったことではないが、日本の政府やメディアまでが中国側に立って河村氏を批判しているのは理解に苦しむ」との意見は今わが国民の率直な気持ちである。

捏造された南京事件

改めて南京事件がどうして起こったのか、振り返っておく必要がある。南京大虐殺問題は東京裁判の法廷で初めて取り上げられ、中国人が公式犠牲者数を30万人と証言したので世界中に大きな波紋を広げた。

法廷に証人として出廷した中国人は、日本軍が以下の通りの蛮行をしたと証言。①日本軍は南京落城直後に一般市民である1万2000人の中国人を殺害した。 ②占領後、南京市内で一カ月約2万人の婦女子に対する強姦事件が起きた。③約6週間南京市内で略奪、放火が続けられ、市内の三分の一が破壊された。④降伏した中国兵捕虜3万人を殺害。⑤占領後、6週間で30万人の市民、捕虜が殺害されたと証言した。

東京裁判ではその証言をそのまま事実と認定した。しかも、虐殺に関わった責任者として、南京市の日本軍総責任者、松井将軍が反論の余地もなく戦犯として処刑された。しかしこの裁判判決が、戦勝国を正義とするための作られた裁判結果なのは言うまでもない。それ以降、わが国民が捏造された歴史観を、あたかも事実かのように洗脳されてきたのは周知のとおりである。

東京裁判での中国人証言が独り歩き

これら中国人証言を調査確認もせず、事実と断定したのは日本の戦争を悪と断罪し、米国連合軍を正義の戦争とするためであった。南京30万人虐殺の虚像は、南京を陥落させた日本軍の兵士たちにとってびっくり仰天の知らせであろう。つまり、調査もせず根拠もない裁判結果であるが、世界と日本国民の大勢はこの裁判で「南京大虐殺」を初めて知り驚いたものである。これらは米中が仕組んで作られた「南京劇場」であった。

しかし、仮にこれが真実であるとしたら、日本軍兵士らが知らないと言う30万人殺害の真犯人は誰なのか。そして殺されたという中国人民はどこに埋葬されたのか。しかも当時日本軍の南京陥落後、100人以上駐留していた外国人ジャーナリストたちが、この“大虐殺”事件を一度たりとも報道しなかったのはなぜか。南京大虐殺事件は、この「なぜか」に答えていない。

戦後、中国側が発表した唯一の証拠品は日本軍の虐殺現場写真を大量に発表・掲載したのである。東中野修道・亜細亜大学教授が、弊会東京例会で写真を詳細にチェックしたが、すべて合成写真であり、インチキであることを指摘。これらはトリック写真や、中国人が馬賊を殺したもので、写真の出所不明、修整やトリミングが多く、明らかなニセ写真と断定された。それ以後、わが国では使用されていない。にも拘わらず、「南京大虐殺記念館」を始め、中国の到る所でこのニセモノ写真が出回っている。中国にとってニセモノであろうとなかろうと、南京事件を正当化する必要がない。すでに日中間政府で合意した30万人大虐殺事件であり、政治的意図で作られた歴史観に他ならない。

南京大虐殺は存在しなかった

当時南京には多くの外国人居留民がいて、ロイター、AP、UPなど大通信社や新聞社の特派員も駐在していた。30万人という規模の大虐殺があったというなら、「死体は累々と積み上げられていた」「異臭に耐えられず」といった世界的ニュースとして取り上げられていたはずだ。しかし、当時の埋葬数は1800名と公表されているが、これは陥落前の兵士の死体とされてきた。

さらに、奇妙なことには、これだけの大事件であるのに毛沢東元主席が南京虐殺を一言も語ることはなかった。中共軍が南京政府の蒋介石を批判しても、日本軍への非難はなかった。それどころか、毛沢東は「日本軍のおかげで中共政府が誕生することができた」と日本の社会党議員らに謝辞を述べている。

忠誠より利己心の強い中国兵

1937(昭和12)年12月10日、国民党政府の首都である南京市を日本軍が攻略し、その翌日に南京は陥落する。これが俗にいう南京陥落だ。そして17日には日本軍は南京市への入城式を行った。では、なぜ日本軍は簡単に南京に入城することができたのか。

中国軍の最高司令官である唐生智将軍が南京陥落直前に部下を置き去りにして逃げたことも一因である。さらに、指揮官のいない中国人兵士は戦闘状況が不利になるとみるや、戦場から敵前逃亡する事態が続出した。

これは最近衝突事件を起こしたイタリア観光船の船長が沈没寸前に逃げ出した事件とはわけが違う。唐将軍は蒋介石に最も忠誠を誓ったはずの護衛官であった。日本の軍則第一条は、「軍人は忠節を誓うを本分とすべし」が徹底されているので、日本兵には考えられない事態である。昔から中国兵は戦況が不利と見れば逃げ出すと言われているが、軍に対する忠誠心がないからであろう。

中国による万里の長城を見るまでもなく、南京市内は堅固な城壁で囲まれており、南京市の城門に入城すると袋のネズミとなる。南京城内にいた中国兵は日本軍が周囲を塞いだので、城外に逃げられず、一般市民の中に潜り込んだ。彼らは「平服を着た兵士」(便衣兵)といわれ、見つけ次第日本軍によって処刑された。

陥落後に人口が増加した南京

南京陥落に際して日本軍が徹底したことが二つある。一つは「便衣兵」の処刑である。彼らは銃器を隠し持ち、在留日本人婦女子に危害を加えるからであった。兵士が平服を着て一般市民になるのは「戦時国際法」で禁じられている。当時の軍の記録によると、南京で起きた市民の殺害は49件、傷害は44名で、これが南京で起こった事件の統計であった。

なぜ南京は陥落後も治安が安定していたのか。日本軍の松井石根総司令官は、南京陥落後、兵士に対して、「日本軍は外国の首都に入城するのは初めてであるから、諸君は後生の模範となるよう秩序を重んじ、行動すべし」と厳命。松井司令官が南京市内の治安を徹底して統治したおかげで南京市内にいた外国人居留民やジャーナリストの安全が守られたとする感謝の記事が多く残されている。

南京市内の人口については諸説ある。しかし、南京に赴き、当時の人口調査を行った故村松剛氏(筑波大学名誉教授)は、もともと南京市の人口は20万人程度であったが、日本軍の南京攻撃前は15万人近くが城壁外に逃げたので実際は5万人足らずと述べている。陥落後、8週間くらいで人口は25万人以上に増加した事実を突き止めた。1988年、日中友好協会のパーティの席上で、会長の孫平化氏が30万人虐殺を公表したが、村松氏らは“そんな事実はない、すぐ訂正せよ”と詰め寄った。孫会長は「その必要はない。30万人という数字は(日中間で)既に決まっている」と答えた。(続く)

次回は3月15日(木)