木曜コラム

山本善心の週刊「木曜コラム」  今週のテーマ     日本の植民地政策(下)


―朝鮮と台湾を比較して―

元台湾・淡江大学教授 日本研究所長 張炳楠

大正11(1922)年から住民警察が以下の通り配置された。台湾547、朝鮮919、樺太572、内地1228、関東州797、北海道1743。あれほど「武断政治」だといわれた朝鮮ですら、住民数の比率でいうと、警察官の数は台湾の約半分であり、面積で比較すると、朝鮮は一方里につき警察が1.3人であった。それに対して台湾の場合は3.1人であるのは不公平であり差別化である。
次に朝鮮学校の校長に多くの朝鮮人が起用されているのに対し、台湾では中等学校校長に台湾人は一人も任用されず、1074校の小学校校長にわずか5人しか台湾人を登用しなかった。また、文官待遇については大正8年の朝鮮では給与、恩給、退官賜金など内地人と同等待遇したのに対し、台湾人官吏には太平洋戦争末期に初めて、内地人の官吏待遇の加俸に伴って、やっとその半額加俸となった。
ところで、紀元2600年式典を記念して、両地に日本式「創氏改名」運動を試みた結果、朝鮮人は全人口の8割が競って改姓したのに対し、台湾人は全人口500余万人のうちわずかに10万人であった。両地原住民の思想観念が異なったから生じた現象だと思う。

志願兵から徴兵へ

由来、日本帝国においては、軍人は国防の第一線に立つ名誉ある存在であり、内地人のみ軍人たり得る資格があるとされた。昭和13年1月は朝鮮に陸軍志願兵制度が施行されたのに対し、台湾では4年遅れて昭和17年4月に初めて施行。海軍志願兵は昭和18年に施行された。続いて昭和20年に両地は同時に徴兵制となる。しかし、終戦まで朝鮮は荘官、左官級将校などが数十人にのぼったのに対し、台湾の場合はもっとも高い階級は大尉であって、中・少尉をあわせても数人を超えなかった。その他、両地における政治的、教育的、経済的、社会的な差別は枚挙にいとまがない。植民地時代の台湾は冷遇され、朝鮮がすべてに優遇されたのは残念である。

「化外の地」と見なされた台湾

植民地前の台湾は15世紀以降から開発されたが、清朝は野蛮人がいるうえに土匪(どひ)が横行し、害獣が多く、疫病が流行しているこの島をもてあました。このため台湾は「化外(けがい)の地」として清国から放任され続けた。台湾の中南部の田舎へ行くといまでも各村落の家の周りに多くの刺竹(棘のある太い竹)が密植している光景を見かける。それは昔の土匪と蕃害の攻撃を防ぐためであった。日本統治下で、佐久間総督が生蕃討伐計画を立てて、討伐後に徹底的な教育を施した結果、教育の普及は現地の漢民族を越え、高砂族(生蕃の改称)は陸軍志願兵に参加、軍人あるいは軍夫軍属として南方のジャングル作戦で功を立て、もっとも日本軍に忠誠を尽くした。また土匪は日本の討伐により完全に姿を消したのである。
日本統治が行われた50年3ヵ月の間に、治安の強化、衛生の改善、資源の開発、社会文化の進歩、経済の発展など近代的建設が推進された。戦後、こうした基礎の上に、国民党政府の治績が加わって、台湾は「化外の地」から今日のような住みよい楽土になったのである。

海南島と台湾

中国の東南方の二つの島である台湾と海南島は、中国にとって重要な島であるが、面積もほぼ同等であり、気候風土もよく似ている。台湾は海南島よりやや開発されていたとはいえ、中国本土に比較すればともに未開の島であった。しかし、半世紀にわたる日本統治のおかげで、台湾は中国本土をはるかに凌ぐ発展を遂げている。すなわち日本の植民地統治政策は、世界に稀なる専制政治として多いに非難すべきである反面、併合後はこの島のために献身的に働いた日本人の医師、学校の教師、技術者、農業指導者ら無名の英雄たちである。この島を立派にしようと働いた彼らの涙ぐましい苦労があってこそ、祖国復帰後、容易に、しかも加速度的に近代国家を建設できたのである。
具体的には、日本統治が遺した戸籍制度、土地調査、衛生、電力、交通網、運輸、都市計画、治安司法、国民教育の施設と普及、農業水利灌漑の整備、金融税制、農協組織を始め、これまでの悪習は打破された。近代思想の定着、遵法精神と物事を処理する観念などは台湾人に受け継がれて、大陸をはるかに凌ぐ発展の礎となる。この点、朝鮮も日本統治35年の間に日本が築いたあらゆる施設と制度が韓国人によって受け継がれたのと同じであった。両地の人々の中に日本統治下の治績を悪と断罪するのはあまりにも不公平である。

また、終戦によって、台湾が祖国復帰を成し遂げてから、全ての価値観が一変した。これまで「土匪」「悪徒」などとして総督府に追討された人々は「抗日烈士」「民族革命家」など台湾を代表する英雄として崇められるようになったのはあまりにも慎重を欠いているような気がする。なぜなら彼らはあくまで台湾住民の公敵であった。

経済発展成功の要因

およそ一国や一地域の経済発展の原動力となるのは、政治制度の定着、社会の安定、諸施設の完備および人民の勤労精神とがあいまって成功するものである。台湾は清朝時代の「化外の地」から、日本の植民地統治のあいだに住みよい楽土になった。そして第二次世界大戦後までに築かれた有形無形、人民に植え付けられた遵法精神、勤労と経営理念が台湾の資産となる。その後の国民政府による台湾の経済発展の重要な土台となった。今日、国民党政府の素晴らしい経済発展の大きな治績を讃えると同時に、私は日本統治時代の治績を抹殺するわけにはいかない。中国の言葉に曰く「先人種樹、後人乗涼」-先人が樹を植え、後年の人がその樹の下で涼むといわれている。日本植民地統治時代の治績があってこそ、今日の台湾経済発展を成功せしめたのは、まぎれもない事実であり、日本植民地政策の結果であった。

国内の官、学界はわざとらしく「植民台湾」「工業日本、農業台湾」という論調を用いて植民統治の治績を否定する傾向がある。これは国民党政権に迎合するもので、これは不公平である。日本が台湾の島を領有し、日本の一部として根を下ろし、住みよい島にする観念がなければ、産業調査の必要もなく、行政、治安、金融、農業、林業などの施設を強化する必要もなかった。「農業台湾」は事実だが、それは台湾には鉱産物が少なく、農業発展にもっとも適していたからである。この点、朝鮮に対する政策も同様で、「南鮮農業、北鮮工業」も朝鮮の経済発展にもっとも適していたからであった。
ある人たちは「台湾における日本の建設は第二次大戦によって完全に壊滅され、国民党政府によって経済発展した」という。しかし、この点について、私は同意できない。制度と観念、規律を守る遵法精神と生産観念、勤勉と節約、物事を処理する態度は日本が残した遺産であり簡単に崩壊するものではなかった。

「あせらざる教育」が植民地発展の基礎となった

1945年の第二次世界大戦の終焉とともに、全世界にわたった植民地統治は幕を閉じた。かつての植民地は雨後の春筍のごとく独立国となる。そして朝鮮は南北に分割されて独立し、台湾も祖国に復帰した。そして朝鮮と台湾、シンガポール、および1997年に中国に返還される香港は“四つのドラゴン”としてすさまじい経済発展ぶりを示し、世界の注目を浴びている。朝鮮と台湾は日本の植民地であり、シンガポールと香港は英国の植民地であった。それまで、海南島はずっと中国大陸に属していたため発展していなかった。
また、アジアでアメリカの植民地だったフィリピンは独立後、政情不安となり経済発展もなく、取り上げるに値するものがない。仏領インドシナ半島は、植民地時代は平穏を保っていたが、独立後、カンボジアなどは政権争奪と内戦に悩まされて、国連に迷惑をかけ、人民も悲惨な生活を送っている。もともと植民地の根本統治政策を確立するのは至難の業であって、世界各地にもっとも多く植民地を持っていた大英帝国でさえ、一貫した統治方針がなかった。たとえば、日本が朝鮮と台湾を専制統治の下で鋭意経営したのに対し、インドに対する統治政策は放任主義に近かった。
最後に、植民地統治で大切な要点をかつて筆者の博士論文の指導教授であった恩師の鍋田一先生に教えを乞うたところ、「あせらざる教育である」と教えてくださった。
清朝時代と日本統治下、もっとも当時の民衆を悩ました台湾の勇敢なる高砂族は、日本の圧政に反抗して、「霧社事件」として知られる抗日武装決起事件を起こした。日本政府は武力鎮圧のあとに、警察官を蕃地に派遣して駐在させ、徹底的な教育を施した結果、高砂族の就学率は漢民族より高く、前述のように、第二次大戦中、高砂義勇隊に志願して、南方のジャングル作戦で日本軍に忠誠を尽くした。まさに植民地政策の良策は「百年樹人」としての「あせらざる教育」であった。

次回は3月1日(木)