木曜コラム

山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     日本の植民地政策(中)

―朝鮮と台湾を比較して―

元台湾・淡江大学教授 日本研究所長 張炳楠

日韓併合後、韓国国王と王族、併合に貢献したとされる当時の総理李完用をはじめとする約76名、旧韓国官吏3645人、一部政治団体以外の韓国民は、長い間にわたる苦難の道を歩まねばならなかった。また、予定通り初代総督になった寺内正毅の発した豪語は、次のようなものであった。「朝鮮人はわが法規に屈服するか、死か、そのいずれかを選ばねばならぬ」。しかし、売国の汚名をかぶることなく、授爵を拒否し、あるいは生命を絶つことによって殉国した烈士も十数名にのぼった。
ところで、日本の植民地となった台湾と朝鮮両地の大きな違いは、台湾は漢民族が定住するようになってから歴史が浅かったうえに、清国の一つの島であって、日本が戦勝によって獲得したから法的に領有したことになる。それでも日本が台湾を全島確保するまでに動員した総兵力は約五万名、軍夫が約二万六千名、馬九千頭余で、その規模は当時の帝国陸軍の三分の一を占めた。しかも、五ヵ月の長い時間をかけて、はじめて平定した。(喜安幸夫『台湾統治秘史』より)
これに反して、朝鮮は三千年の歴史を有する独立王国で、日本とは関係の深い隣国であった。しかし、日韓併合は日本の大陸進出の野望と巧みな謀略もさりとて、当時の韓国の宮廷の腐敗、財政の困窮、内閣の無能、韓国内部の親日と反日、親清国と反清国諸派閥による抗争、日本、清国、ロシア三国による朝鮮における複雑な利権の争いなどを前にして、朝鮮政府が有効に対応できたとすれば、日本が統監府を設置する必要もなく、やがて日本によって併合され、亡国の破目に至ることもなかったと思う。したがって、併合後は撫政策、懐柔策と強硬政策を組み合わせるなど、朝鮮の統治政策は台湾統治よりも複雑な道を歩まねばならなかった。そのもっとも顕著な例が、併合後十年目の1919年3月1日に、全国にわたって爆発した民衆の抗日闘争で、日本内地からの軍隊を動員してやっと鎮圧された。この事件は3月1日に始まったために、一般に「三・一運動」と呼ばれている。それに対して、台湾は高砂族の霧社事件以外には、軍が脚光を浴びるような大きな抗争はなかった。

朝鮮総督は格式が上位

植民地統治における両地総督の地位と権限は絶対的なものであり、台湾と朝鮮に君臨する「小皇帝」とたとえられる程であって、行政、立法、司法の大権を一手に有していた。総督には任期がなく、総督府官制によれば、台湾では陸海軍大将あるいは中将で、朝鮮は大将に限られた。初代台湾総督は樺山海軍大将であり、朝鮮は寺内陸軍大将である。これは明らかに朝鮮は大陸進出の拠点であることから、陸軍を重んじ、台湾は南進にあたって前進基地となり、航空機の登場後の譬喩を用いれば、不沈航空母艦の役割を与えられたことから、海軍を重視していた。また、台湾総督は台湾現地では絶対の権力を有していたが、本国における地位は朝鮮総督の後塵を拝した。

朝鮮は台湾と違って、悠久の歴史を有する一つの独立国が、日本帝国に併合されたという事情がある。それゆえその皇帝は日本の宮家に列せられたために、朝鮮を支配する朝鮮総督は格式上、台湾総督の上位にあるとの措置がとられた。天皇との関係において、両植民地の総督に一貫して求められたのは(1)親任官であること、(2)武官総督は、委任の範囲内において陸海軍を統率すること、(3)律令(朝鮮では制令と称する)の制定には、主務大臣を経て勅裁を得ることである。朝鮮総督の地位が高いことは、宮中の席次にもよくあらわれていた。次の席次では朝鮮総督の総督は第六位で、台湾総督は席次がない。
第一)大勲位、第二)首相、第三)枢密院議長、第四)元勲待遇による大臣礼遇者、第五)元帥、大臣、第六)朝鮮総督、第七)首相、枢密院議長たる前官礼遇者、第八)大臣たる前官礼遇者、第九)枢密院副議長、第十)陸海軍大将、枢密院顧問官、第十一)親任官、第十二)貴族員議長、衆議院議長、第十三)勲一等旭日桐花大授章、第十四)功一級、第十五)公爵、第十六)従一位、第十七)勲一等旭日大授章
さらに『高等官官等俸給令』(明治43年勅令)に照らしてみると、両者の違いは一層明白である。朝鮮総督の年俸は総理大臣の一万二千円には及ばないが、各省大臣と同じく八千円であるのに対して、台湾総督は関東庁長官と同額の七千五百円であった。以下、台湾総督府の諸官はそれに対応する地位にある朝鮮の官僚に比べて格式が低い。(黄昭堂著『台湾総督府』)

次に大臣経験者が台湾総督になったのは、初代の樺山資紀と田健次郎の二人だけである。これに対して、歴代朝鮮総督は長谷川好道を除けば、いずれも大臣を経験してから朝鮮総督になっており、長谷川にしても参謀総長を辞任したあとに総督に就任している。なかでも阿部信行は首相経験者である。なお、総督辞任後首相になったのは、台湾総督では桂太郎のみであったが、朝鮮総督からは寺内正毅、斎藤実、小磯国昭三人がでている。
次に台湾総督の初期武官総督は樺山資紀、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎、佐久間左馬太、安東貞美、明石元二郎の七人で、そのうち桂、乃木、児玉、明石の四人は中将で赴任し、児玉と明石は在任中、中将より大将に昇進している。これに対し、朝鮮は官制により、全部現役陸軍大将である。両地の統治期間は、台湾は全部で十九代の総督、五十年三カ月、朝鮮は十一代・三十五年三カ月であった。

統治政策の異同

日本帝国の台湾と朝鮮への統治政策はほぼ相通じたと言える。朝鮮は日本の台湾領有後、十五年目に併合された。そのために、朝鮮に対する統治政策も、台湾武官総督の専制政治をそのまま継承した。大正八年に至って、台湾は田健次郎の着任で文官総督に切り替え、朝鮮も同じ年、斎藤実総督が二度目に赴任したことによって、武断政治から「文化文治政策」を打ち出した。しかし、朝鮮では純然たる文官総督ではなく、現役の陸軍大将が文化文治しているに過ぎない。
政策上、両地への共同スローガンとして、「日台融和」「日鮮融和」「一視同仁」「皇民化運動」「日本臣民化」、朝鮮神宮、台湾神社参拝、宮城遥拝、国旗掲揚、姓改名、国語家庭などの運動を行った。その中で寺廟撤廃と日本の神道信仰を強要した神棚奉祀は、台湾人の強い反感を買っている。
朝鮮は李王家を皇室に王族として加え、また併合に功のあった人々には、華族、爵位の恩典と恩賜金を与えて安撫したが、台湾にはその必要がなかった。朝鮮では親日派と反日派が激しく抗争し、日本は巧みにその矛盾を利用したが、台湾は割譲後、下関条約によって住民はそのまま日本国民となり、日本国籍を欲しない住民は明治30年5月までに官庁に登録し、中国に退去させた。その結果、清国に籍を希望して退去した人数はわずか4456人で、総人口の0.16%だった。(当時の人口は、『警察沿革誌』によれば280万人だった)しかし、朝鮮は併合後、住民の大勢が日本国籍を取得した。
ちなみに、1871年のフランクフルト条約によって、フランスからドイツに割譲されたアルザス・ロレーヌの住民に旧国籍を選択した人は10%である。(山下康雄著『領土割譲と国籍』)。これは台湾住民が台湾に定着していたことを意味し、また一部では祖国清朝の無能を恨んだためだったとも言えよう。

官吏の任用と待遇差別

現地人の任用については、朝鮮は併合後十三道(内地の県に相当)の道長官の中、六人の朝鮮人を任命、218軍の上官の大部分に朝鮮人を任命したのに対し、台湾人は日本統治五十年間の間、一人の知事あるいは市長をも任用されなかった。街庄長(町村長)ですら、若干名任用したに過ぎない。

特筆すべきは、台湾総督の権力を反映して、その直属官選の部下州知事は「小総督」としての権力を保持し、それがさらに上官から巡査にまで下っていく。総督と言っても台湾人にとっては雲上人であり、州知事でさえはるかな存在で実感すらわいてこない。むしろ巡査は台湾人にとっては、その一人一人が総督の身代わりであり、権力の権化、とくに村落において地方名士の上をいく存在で「大人」と称された。かれらは文字通り、「泣く子も黙る」ほど恐れられ、恨まれた。母親たちは泣く子をあやすのに「大人来る」(巡査が来たよ)といえば、子どもたちが泣きやむ光景は珍しくなかった。(続く)

次回は2月23日(木)