木曜コラム

山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     自由と民主主義の正体

前号コラム(344号)で自由と民主主義について少し触れたところ、関心のある方々から意見が寄せられた。「民主主義は自由な発言と行動が許されるが、そこにはルールがある。自由と民主主義の見直しが必要だ」「私も最近、戦後民主主義が限界に来ていると思っていた」「自由には責任があるが、政治は無責任になっている」「ギリシャ没落の過程と今日の日本の姿は同じだ」。

これまで、自由と民主主義については、京都大学の勝田吉太郎名誉教授から度々お話を伺う機会があった。勝田氏は、韓国、台湾のシンポジウムにもご出席頂き、ご交誼とご指導を頂いている。氏は人間として学者として超一級であり、あらゆる問題に対する幅の広さ、奥行きの深さにはいつも頭が下がる思いだ。

筆者は勝田氏の著書『民主主義の幻想』や『欲望民主主義』など、自由と民主主義に関する講演の資料やメモを大切に保存している。勝田氏はバブル時代、国民の欲望の果てしなき贅沢な生活ぶりを見て、これは「欲望民主主義」だと命名された。

過度の自由と平等が生んだもの

自由と民主主義は、世界中誰でもが絶対的信条と考えてきた。わが国民に中国や北朝鮮のような共産主義国家になりたいかと問えば、大多数が反対するだろう。中朝両国は独裁専制主義であり、一党独裁主義国家だ。中朝の人民は自由な発言や行動が許されず、人民は不満と不幸を背負った弱者たちが大勢を占めている。

人間は自由でありたいと誰しもが願うものだ。戦後、学校の先生たちは自ら率先して「自由と平等」をはやしたてたものである。筆者は子ども心に先生と生徒も平等、親も子も平等とは考え方がおかしいと思っていた。親が子どもにへつらい、先生が生徒におもねれば、子どもは親を馬鹿にし、生徒は先生を軽蔑して当り前だ。

このように過度な自由と平等が跋扈すれば、国家を統治する支配者やあらゆる機関のリーダーが批判、嫌悪され、支配者らは被支配者に媚びを売るしかない。媚びが常態化すると社会は無政府化し、支配者は大衆の欲望を受け入れる政策がエスカレートする。たとえば、民主党のマニフェストや「生活第一」のキャッチフレーズは「有権者」に媚びを売り、借金を後世に残す政策だ。国民に金をばらまき、そのツケが増税なら、最初から何もやらない方がよい。

欲望民主主義に行き着く体制

自由と民主主義の行き過ぎは、指導者の力の喪失、市民レベルの要求の肥大化、政治的腐敗、議会の機能不全、統治能力の限界に突き当たる。一方、米国型民主主義を押し付ける中で、他国から富を収奪し、大義名分なき武力侵攻が顕著となる。「自由」がひとたび政治的スローガンと化せば、「自由」の精神は根本から崩れていこう。

自由と民主主義の理念は、人間の尊厳、自由、人権を尊重するものであった。一方、金権主義という側面も持ち合わせている。今日にみるグローバル経済はまさしくこの金権自由主義であり、「欲望民主主義」に他ならない。

日本経済は戦前の権力政治から一転して国民全体が経済至上主義を選択した。日本経済の発展と共に市民団体や、あらゆる圧力団体は政治に社会的権利を主張し、予算の要求は熾烈を極める。自由と民主主義の操作を誤作動すれば、行政は絶対的権力と無駄遣いを肥大化させてきた。米国は民主主義を錦の御旗に金権自由主義でおごり失敗したが、わが国は米国と同じ轍を踏もうとしまいか。自由と民主主義は使い方次第で正義となり、悪の温床ともなる。

「自由と平和」は錦の御旗か

ここで民主主義とは何か、改めてその意味を振り返りたい。民主主義(Democracy)の語源はギリシャ語のdemokratiaで、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したものである。すなわち、人民が権力を所有し、権力を自らが行使する立場をいう。古代ギリシャの都市国家に行われたものをはじめとし、近世に至って市民革命を起こした欧米諸国に勃興。基本的人権・自由権・平等権、あるいは多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、またその実現が要請される(広辞苑より)。

人間はいつの時代にも、自由という偶像を掲げて目的に進む。たとえば「大衆」「市民運動」「平和」と「民主主義」など、様々な偶像がつくられてきた。なかでも「自由」「解放」への信仰とキャッチフレーズは世界的に根強く生き残っている。同時にこれまで「自由」と「解放」、「人民」という偶像を掲げて毛沢東が1千万人、スターリンは3千万人の人民を粛清する手段とした。

詐欺と自己責任も「自由」の産物

自由という観点で考えれば、人殺しも、暴力も、人を騙して金をとるのも、本人の自由だと言う人もいる。しかし、そんなことが自由にまかり通れば、社会が崩壊するので、ルールを守る規制が必要になる。

いまや、自由と民主主義には責任が伴うという概念がすっかり希薄になった。たとえば、グローバリズムといい、フリー、フェア、グローバル、オープンといい市場は自由な競争原理があるという。ある上場企業のオーナーが1000円の株価を1万円にすると言って、多くの仲間に自社株を買わせた話を聞いた。株価が上がると人に買わせ、自らの保有株を売却する騙しの手口だ。一時期株価は1800円まで上がったが、最終的には400円まで暴落した。こんなインサイダーまがいのことが裏では平気で行われていたと聞く。

会社の株価が10倍になると騙すのも自由だし、信用して買うのも自由だが、そこで損をした人は詐欺に遭ったと同じだ。しかし、すべてが「自己責任」で片付けられるので、詐欺師の責任は問われない。

グローバル金融ビジネスの総元締めは米国だ

米国の金融ビジネスは世界を席巻したが、実態は詐欺同然のビジネスプランであった。ところが、自由競争によるグローバル金融ビジネスの勝者であり、胴元であったはずの米国金融経済の底が割れたのである。米国の金融ビジネスは全世界から資金を集めて、全世界の資金を巻き上げる賭博ビジネスであった。

米国は十数年前から、ゴールドマン・サックスや外資系企業が安い日本の優良株を購入し、相場をつくり上げてきた。彼らは、日本の小金持ちを欲でつりふるいにかけて富を収奮した。米国から始まった金融政治は多くの国に普及したが、いまや本家の米国がこけてしまった。米国は自由と民主主義の理念である、他者を尊重する気持ちを取り戻してほしい。

共産主義は人を幸せにできるか

自由と民主主義は世界の人々を幸せにする理念と誰もが考えてきた。しかし、今さら共産主義国家がいいという人もいないし、封建時代には戻りたくはない。我々は「自由」を謳歌して、人々はそれに嬉々として従ってきた。いま、この悩みに直面しているのが台湾と中国だ。台湾は自由と民主主義国家となって21年目を迎えた。中国の人民は台湾の民主化に憧れを抱いているが、台湾人は共産中国とは一緒になりたくないと思っている。

中国が武力で台湾侵略を試みようとすれば、自由と民主主義を名乗る世界のすべての国を敵に回すことになる。その台湾に本当の民主化が根付いたのかと言われれば、今はその成長過程にあると答えていい。国民党の馬英九総統は自由と民主主義の国・台湾の総統として、「共産主義中国と台湾の統一は、任期中にはやらない。将来も中国の民主化次第である」と述べている。

自由からの逃走

「自由」と「民主主義」は素晴らしい仕組みとシステムである。しかしこれを政治的に悪用すれば人民を絶望の淵に突き落とすことも可能だ。「自由」と「民主主義」には「責任」が伴う。そのためには理念と厳しいルール、道徳心が機能されるべきであるとは既に述べた通りだ。

現今わが国の政治家諸氏の言葉は軽く、自由と民主主義の重みと責任がまったく感じられない。民主党が政党としてマニフェストを守れないのは公約違反である。たとえば、前号でも述べたが、野田佳彦新首相は、言ったこととやることはまったく正反対を繰り返している。いくら深々と頭を下げても言うことと実行が伴わないなら、リーダーとしては失格だ。

わが民族は、約束したことは必ず守るというルールと道徳心が機能してきた。これが崩れるとすべてが雪崩のように崩れていく。自由は人間の本質であるが、自由という重い責任に耐えられるか否か。いま欠けているのは指導者も世論も、人間の自由に伴う責任という認識がぶれ始めたところに自由と民主主義の限界と危機を見る思いがする。

次回は9月29日(木)です。