山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ    李登輝元総統 インタビュー(1)

2011年04月28日

7月17日から台北で行われる日台アジア会議の発足に向けての準備が大詰めを迎えている。そこで先月の3月18日に訪台し、李登輝元総統を訪ねた。李氏は約二時間にわたってインタビューに答えられたが、元気溌剌で90才とは思えぬ迫力に筆者もたじたじであった。本稿では三週にわたり会談内容を掲載します。

山本:このたびは日台アジア会議の趣旨にご賛同いただき、また対談の機
会もいただき、まことにありがとうございます。今回は、日本の過去の植民地時代から、李先生が台湾の近代化の礎を築かれるに至った歴史的経緯や、後半は現今の台湾を巡る政治情勢などをお聞かせくだされば幸いです。たとえば歴史的に見て、実際に日本人は韓国や中国で言われるようなひどいことを台湾でしたのか、あるいはいいこともしたのか、ほとんどの日本人は偏向した教育を受けていて全く理解していない人が多いようです。そして、台湾を取り巻く国際状況はどのように変化していくのか、等々、ご意見を聞かせていただきたいと思います。

「化外の地」から真の独立国家へ

李氏:結局、台湾というのは国民政府というよりは蒋介石総司令の台湾占
領以降、所属不明の状態で、どこにも属していません。アメリカは台湾を憂慮した姿勢を見せながら都合良く駒として使っているというのが実状です。旧ソ連との冷戦時は中国と結ぶために台湾を疎遠にしておきながら、中国との関係が悪化すると台湾の重要性がはっきりしてくるわけですよ。
ですから、台湾としては、そろそろここら辺で思い切って自分でどういう方向に進むか、経済も外交も国としての自主性を発揮する時期が来ているのではないかと思います。私の総統時代は、米国に譲歩して昔の中華民国憲法を残しながら、アメリカ式に増加条文というのをつくって、「第何条は通用しない」という形をとりましたが、そろそろ中華民国という名前も変えて、はっきりとした台湾独自の憲法を発布するという段取りでやらないといけない時期に来ていると思います。

民進党の第七回の憲法修正案では国民党と取引をして、国民不在のまま
党利党益に走りました。党の利益といっても、中国の場合は昔の日本のよ
うな天皇を重視して国を固めるというやりかたではなく、人民を圧迫して党の力を強くして、党の利益を中心とするのが中国のやりかたです。それは共産党も国民党も変わらない。台湾も同じ。5千年の歴史というのはどんなに朝庭が変わっても皇帝中心で、いまも昔の皇帝型統治が続いているんですよ。ただ、朝貢した当時の琉球やコリアと異なり、台湾は中国文化の及ばない『化外(ケガイ)の地』とされてきました。

台湾の黎明期

清の時代、フランスは清と戦争やって今のベトナムを獲りました。ところがフランスは、基隆と淡水に攻めてきた。清国はフランスと闘って勝った。そういう経緯があって、台湾に初めて、省ではないけれど巡撫を置いて台湾を基地化としようとなったんです。

その時の巡撫であった劉銘伝は6年ほどの間に鉄道、税制、土地改革な
ど、台湾に於ける初の改革を行いました。石炭投資、茶の栽培の奨励など、台湾の歴史上初めての試みでした。しかし鉄道敷設もごく一部にとどまり、中途半端な状態で終わりました。その後、後藤新平がやってきてわずか8年7カ月の間に台湾のあらゆる制度が刷新されることになります。まず行政改革。組織を決めて司法制度ができる。度量衡、貨幣も統一されました。

台湾近代化に貢献した後藤新平

日本は日清戦争後、十年間台湾に援助する計画でしたが、当時、日本が
ロシアと戦争するために軍事資金が必要で、援助は五年で途絶えました。
台湾は自分たちで生きていくために専売制度を設け、塩、酒、たばこなどを売っていました。後藤新平が四代目児玉総督の民政長官として赴任するまではアヘンの専売制度もあったんですよ。初代~三代総督時代の官吏は柄が悪かったのでしょうね。後藤新平は着任すると1080人の台湾にいる日本人を日本に追い返して、代わりに一流の人間を連れてきました。その中に新渡戸稲造もいたのです。

後藤新平はわずか8年数カ月の間に、地下水・上水道の問題を始め何か
ら何まで台湾の近代化組織をつくりあげました。彼は日本に帰国する前に
アモイに行きました。日本統治時代は日本籍を取る者は残れ、取らないも
のは財産を没収すると二年間の猶予を与え、その結果、台湾に残った人間
はほとんど日本籍を取り、財産は保持されました。

私が子供の時分は、学校で先生たちが、「おまえたち、きちんと話を聞け!」「おまえたち日本籍をとるために残った人間じゃないか」などと、よくいっていましたよ。こうしてこれまで化外の地としておざなりにされてきた台湾でしたが、日本の統治下で台湾と日本の交友関係が促進され、いわゆる明治維新のときの、東西関係の融合が促進されたわけです。

後藤新平は強い信念を持っていました。彼はアモイに行ったあと、香港、マニラ、インドネシアなどで力強い南方貿易事業を行い、後に華南銀行というのを作りました。ところが惜しいことにその後彼は総裁として満鉄に呼ばれ、そこでの大陸政策に従事することになったのです。そしてまたそこに日本の大陸政策がつくられることになったのです。即ちハルピン協会をつくり、満鉄を発展させて、第二次世界大戦と結びつく・・・。もし彼の南方政策でアジアの島々と手を結んでいたら日本はまた違った道を歩んだかもしれない。歴史というのは面白いですね。

2007年に私は日本で「後藤新平と私」という題名で講演したことがあります。彼と私は年代としては百年くらい違いますが、台湾の関係でいえば彼は台湾の近代化、私は台湾を民主化したという関係になるでしょうね。

後藤新平によって台湾の発展の基礎がつくられ、その後数代の総督の指
導と台湾人民の努力の結果、台湾はさらに発展しました。鳥居信平の屏東
の地下ダム、八田興一の烏山頭ダム、日月潭の発電所もこの頃つくられ、台湾の農業と工業の生産力を高めるのに非常に役立ちました。

1925年に台北高等学校、その前に医学専門学校、農業専門高等学校、商業学校も沢山つくられ、1928年には台北帝大が設立されました。ちょうど戦争に入りかけのときでした。日本の台湾に対する政策は外国の色々な昔の帝国主義者と違って、まず現地の人間を教育し、台湾の経済的な発展を促すという政策で、搾取するというよりは、台湾を活かして全体的に発展させるという考え方だったのです。

台湾人の中には指導者が育たなかった

謝雪紅と言う女性がいましたが、振り返ってみると、あの時代、台湾人で指導者的役割を果たした人物と言えば、彼女ぐらいでしょうね。彼女は日本共産党の台湾の指揮者だった。1945年には台中で「人民協会」や「農民協会」も設立しましたよ。あのとき日本が台湾の政治指導者を養成しなかったことが悔やまれます。日本統治時代、日本兵として兵隊にいった人はおそらく15~16万人はいたと思いますが、この中から二二八事件の指導者はあらわれませんでした。この謝雪紅だけが一番良く働いた人でしょう。台中警局や公売局台の中分局を占拠して国民党の兵隊と闘いました。しかし人数も少なかったので、結局埔里まで行って、梧棲港から香港に逃げたのですが、香港に行ったあと、中国共産党に随分やられましたね。可哀想なことをしました。彼女は一生台湾の農民の為に闘った人です。

もし、日本がきちんとした指導者を残しておいて、それが台湾の全体的発展になればよかったと本当に悔やまれて仕方ありません。

アメリカの台湾関係法ありき

台湾はマッカーサー司令部が蒋介石司令に台湾の日本兵を投降させて
占領をやれと命令しました。国際的にこういう例がないのです。台湾内部に強い指導者がいれば台湾の自主性が固められたはずですし、そうなれば台湾と中国関係はないし、日本との関係もきれいだった。要はアメリカとの関係、おそらく軍事政府が関係するスキャプなんでしょう。ところが、このスキャプがなくなってもアメリカの国防部が握っているのです。

台湾問題は結局、中国との関係ではアメリカの国内法の台湾関係法が
ありきになっています。台湾は国際貿易上では、あのとき私が1989年末にガットが終わって、WTOに代わる前に、関税領域と言う名義で申請したために各国との貿易関係ができあがったのです。

次回は5月12日(木)です。
李登輝元総統PART(2)をお送りします。