山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     日本の謝罪文化は世界には通じない

2010年09月09日

今から20年前、韓国ソウルでの出来事であった。筆者は新太郎(現時局心話會取締役)が韓国の延世大学大学院政治外交学科に在学中、数日間滞在することがあった。滞在中は、知り合いの金青年が車の運転を引き受けてくれた。当時金氏は38歳位で仕事に意欲満々の青年であった。彼は日本語も上手で立派な意見を持っていた。

 彼の運転する車がソウル市内の明洞(ミョンドン)に差しかかり、細かい路地に入ろうとした時のこと、向こう側から一人の老人が突然我々の前に飛び出してきた。あまりに咄嗟のことで、金氏は老人をよけきれず、はねてしまった。筆者は驚いて老人を助けようとしたが、既に即死の状態であった。金氏はパトカーが来るまで顔色一つ変えず、悠然と構えていたのが印象的だった。

 彼は警察に連行され、尋問を受けたが、老人を轢いた張本人であるにもかかわらず悪びれる様子もなく、悪いのは轢かれた老人の方だと主張した。筆者は金氏の態度に何か違った世界との遭遇を体験したような気がしたものだ。

諸外国では非を認めないのが当たり前

 これがわが国であれば良し悪しの問題ではなく、人を轢き殺したのだから私が悪かったと遺族に謝るのが当然である。この事件は確かに飛び込んできた老人が悪いとは思うが、一人の生命が失われたことに理屈などあったものではないと普通の日本人なら誰でもそう考えるものだ。そのことを金氏に質した。

 しかし、金氏の意見は、「ここは日本ではありません。韓国ですよ」と毅然と言い放った。彼は「亡くなった方にはお気の毒ですが、悪いのは飛び出してきた老人で、私には何の落ち度もない。もし私が謝ったり、泣いたり、すまなかったと言えば、永遠に死者の家族に対して補償しなければならないのです」と本音を漏らした。

 わが国の在留外国人の子供たちによる喧嘩に親が介入してくると大変だ。外国人の親は「うちの子はそんな悪いことはしません。悪いのはお宅のお子さんじゃありませんか」と互いに主張を譲らないので喧嘩が大きくなるという。つまり、絶対に自分たちの非は認めないという世界である。

 これがわが国であれば、「すみませんね。ほんとうにうちの子は悪いことばかりして…○○ちゃんに謝りなさい」と言えば相手の親も「とんでもありません。こちらこそお宅のお子様に迷惑をおかけしたんじゃありませんか。本当にすみません」となりお互いが譲り合う。

謝ることは全責任を負うこと

 わが国は、世界でも類例のない「謝罪文化」の国であり、相手の身になって考え、誠意を示すことが、人間関係を丸く収めるやり方だと教えられて来た。しかし、残念ながらこれは、日本という“小さな村社会”だけの話であって、世界では通用しない。欧米や諸外国では一度でも謝罪してしまえば、非を認めたとして、一生補償問題が付きまとう。

 欧米はもとより諸外国では、一度「すみません」という言葉を使ったら、それは相手に対して全責任を負うということだ。彼らが自分の城を守るという概念と警戒心が強いのは、謝罪とは未来永劫にわたって責任を負うというルールが前提にあるからである。

謝罪で解決するのは日本社会だけ

 その点、わが国が持つ謝罪の習性は世界から見ればのんきな極楽とんぼと言っても過言ではなかろう。わが国は企業が何か問題を起こした場合、決して開き直ったり、反論することはない。社長以下、報道陣のカメラに向かって「申し訳ありません」「ご迷惑をおかけしました」と平身低頭して詫びれば、それ以上咎めることもなく一件落着となる。

 死亡事故を起こした場合も同様で、社長自らが遺族のもとに香典を持参し、仏前で涙を見せるような姿を見せれば遺族もそれ以上謝罪を要求することはしない。これはわが国ならではの社会通念である。

 もし、わが国の謝罪通念を外国で行えばどうなるのか。既に述べた通り、相手が非を認めたとして巨額の損害賠償を求められるのがオチだ。それゆえ、諸外国ではたとえ人を殺したとしても、仮に決定的に近い証拠があったとしても自ら謝罪することは全面降伏となる。

過度の配慮で日韓関係に禍根

 菅政権は、日韓併合条約締結100年目の節目にあたり、当時の国際法に基づいて締結されたものであるから有効だとするこれまでの政府見解を変えようとしている。韓国筋の関係者らによると、併合条約は「強制的に結ばれたもので無効」とする主張に菅政権側が配慮したものだ。

 それゆえ、菅政権と一部勢力は相手国に対する配慮が必要だと強調した。しかし、わが国政府が締結100年目にあたり、なぜそこまで譲歩する必要があるのか。そこには深いわけが潜んでいるようだ。

 1995年10月に村山富市首相(当時)は「当時の国際関係等の歴史的事情の中で法的に有効に締結され、実施されたと認識している」と国会答弁した。しかし菅政権は、韓国が反発しているので配慮して封印したという。菅政権は併合条約の有効性をあいまいにすることで新たな禍根を残そうとするものだ。

「罪は人になすりつけるべし」が世界の潮流

 日本の歴代総理は、故意なのか政治的意図があってのことか、ともあれ「私が悪うございました」と詫びる日本式の流儀を国際政治の舞台に持ち込んでいる。しかし、それでは相手に足許を見られるばかりではなく、国益を損じることだ。日韓併合条約は当時の国際法に準じて締結されたものと、村山富市元首相も述べている。これを菅政権になって現代の国際情勢に照らした歴史観で韓国側の主張に同調するなど、外交の素人で済まされようか。

 外務省としてもさすがに、菅政権側に自重すべきと何度も説得を試みた。しかし菅政権はマニフェストで政治主導を掲げている以上、官僚の言いなりにはならないと頑なな姿勢を崩さないでいる。しかしこれは大きく国益を損なう行為に他ならない。

 日本人の発想や行動には根本に「思いやり」の精神があり、「私が悪うございました」で一件落着とする風潮がある。しかし権利義務の概念が発達した欧米をはじめとする諸外国では、謝って済ませるのは自己がなく、人間が甘いとみなされる。「罪は人になすりつけるべし」というのが真正直な考え方であり、生き方だとされている。

竹島は日韓友情の島

 2005年に朝日新聞前論説主幹の若宮啓文氏は朝日新聞のコラム「風考計」で竹島のことを「いっそのこと島を譲ってしまったらと夢想する」と書いた。氏は竹島を「友情の島」と呼び、韓国は竹島周辺で日本の操業権を認め、日韓の絆をがっちり固めるべきだと提案している。日韓両国が自由と民主主義という共通の価値観を持つ間柄であるにもかかわらず、あの島をめぐって角突き合わせるのはなんともばかばかしい問題ではないかと言うわけだ。

 この若宮流思考に対して2006年4月、韓国の盧武鉉前大統領は特別談話で「独島(竹島)は、歴史の清算と完全な主権の確立を象徴する。日本が間違った歴史を美化し、それを根拠に権利を主張する限り、韓日間の友好関係は成り立たない」と述べている。竹島問題で日韓の友情はあり得ないという唯一の証だといえよう。

 朝日新聞は、植民地支配は、「日本の侵略であり、多くの韓国民に痛みと苦しみをもたらした」を基本理念としている。それゆえ、わが国は侵略国家であり、A級戦犯の祀られている靖国参拝に反対だ。しかも憲法9条の改正にも反対であり、平和第一主義である。竹島は「友情の島」であり、鳩山前首相が言う東ガス田は日中の「平和の海」と表現した。

理想主義は非現実的である

 若宮啓文氏は著書「闘う社説」(講談社刊)で自衛隊は軍隊ではないから専守防衛を貫くべきだと述べている。わが国の安全保障は、「非核」を貫く国連主導の国際的な平和構築活動という枠組みの中に存在すべきとしている。さすがは朝日新聞の左派路線を代表する論説主幹の主張でわかり易い。

 氏は中国の東ガス田の開発はさておき竹島を取られても「友情の島」と主張するのはまさに朝日新聞流だ。朝日新聞の社是とは、わが国の「非軍事」こそ東アジア共生の道であり、すべてを平和主義で貫徹すればよい、というものだ。しかし、わが国を取り巻く国際情勢は中国が軍事力を拡大して尖閣諸島や沖縄が中国固有の領土であると主張、東シナ海をわがもの顔で航行している。これが平和の海なのか。世界から見てわが国は平和を放棄し他国の侵略を許す国家に成り下がったとしか思えない。

 諸外国では「罪は人になすりつけるべし」がわが身を守る術であって、日本のやり方では通用しない。わが国の政治や既得権益者らは、そろそろ時代遅れな謝罪行為から脱皮すべきではなかろうか。平和を掲げる理念も結構だが、あまりにも理想主義で、夢物語を語るのは非現実的である。国家にとって過去は栄光であり誇りである。戦前のわが国先人たちは、わが祖国を守るため、青春と親兄弟を断ち、尊い生命を捧げてくれた。そのような先人に対して、政権与党議員たちは靖国参拝すらしようとしない。恐らく先人たちは墓場の隅で涙しているに違いない。

次回は9月16日(木)