山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     朝鮮半島の史実を検証する (中編)

2010年05月13日

伊藤博文は韓国併合に最後まで反対していた。わが国の巨大歳出が念頭にあったためと、もしロシアが朝鮮半島に攻め込んできた際、軍事力を持たない朝鮮外交をわが国が代行する保護領案である。伊藤は朝鮮半島内の鉄道を始めインフラの確立なくしてロシアには勝てないと考えていた。

当時、わが国内の対韓方針は①保護領とすべき②合併すべき――に二分されていた。伊藤博文の主張する保護領とは内政を韓国に委ねることであるが、そうなれば内政干渉はできない。にも拘わらず韓国合併に反対する伊藤博文は、ハルピン駅で韓国青年、安重根に暗殺された。彼は伊藤と同じく合併に反対し、同じ東洋平和を唱える韓国の民族主義者であった。

伊藤博文は撃たれた時、「馬鹿な奴だ」と言った。韓国のために防波堤となっている日本人を殺すとは「何と馬鹿な奴だ」と思ったことであろう。皮肉なことに、この暗殺事件を契機に韓国は一気に併合に向かう。今年は伊藤博文暗殺から百年目に当たる。その安重根が韓国では英雄であるから歴史認識の底が知れるというものだ。

朝鮮初の近代国家が誕生

韓国併合後、国を挙げて同国の近代化、軍備増強に力を注いだ。まず手がけたのはロシアに対抗できる輸送手段を確保するため、朝鮮半島の中心を一直線に結ぶ鉄道敷設であった。ソウル駅は上野駅と同じく19世紀の欧州の駅を彷彿とさせる懐かしい建物である。

時を同じくして道路網、ダム、火力発電の整備を急いだ。同時に学校を建設し、韓国社会のガンとされる両班制度を廃止して教育制度を新設し、農地解放を行った。さらには韓国が抱えていた借金まで精算した。わが国の先人たちは韓国がロシアに侵略されない国に強化することがわが国の自衛強化になると考えた。日韓両国が全精力を傾け富国強兵に励んだ結果、朝鮮半島は強力な防衛の砦に変貌した。

しかし、こんなことを現在の韓国人に言うと烈火の如く怒り狂うのが落ちだ。日本人が韓国の近代化の為に尽力したと言うのは禁句である。たとえ良心的な植民地支配であっても韓国人にとっては屈辱であり、許されぬ暴言なのだ。ましてや日本罪悪論という韓国側の持ち駒を失うことになる。

韓国人の血がたぎる

時局心話會が発足して以来30年以上になるが、たびたびソウルでシンポジウムを開催した際、日本側講師の一人が植民地時代に日本が韓国に火力発電所や鉄道をつくったと発言したので大騒ぎとなった。翌朝の新聞、テレビはこの言葉を捉えて日本人評論家を妄言と言い、非難を浴びせている。

なぜ、韓国人はわが国が植民地時代に行った良心的な政策に怒り狂うのか。ある韓国人は、「今の日本人らは元々韓国社会では家柄も学問もない身分の低い者が喰い潰れて日本に逃れた連中だ。古代より質の悪い人間ばかりが在日となり日本人に帰化したわけで、少しくらい金持ちになったからと言っても、韓国の近代化と発展は俺たちがやった等と生意気なことを言おうものなら、我々民族のプライドと血が収まらない」と興奮する。こうした考え方は何人かの韓国人から本音として聞かされた。日本人には全く理解できない発想だ。

古代に遡って地域感情を検証する

しかし、日韓併合をきっかけに韓国の近代化の基礎がつくられたことは紛れもない事実である。当時韓国に軍事力があれば、何もわが国が巨費を投じて朝鮮半島を合併する必要はなかった。

そのうえ韓国には地域感情というものがあって国内統一がなかなかうまくいかない。この問題を理解するにはずっとさかのぼって朝鮮半島の古代史に突き当たる。

韓国の教科書によれば朝鮮民族は紀元前一世紀、満州の吉林あたりを首府とする。元々はツングースの血が入っている高句麗からの流れが始まりとされている。後漢の時代には朝鮮半島に楽浪郡(今の平壌)と帯方郡(現在のソウル辺り)に総督府があった。壱岐・対馬に住んでいた当時の日本人は九州よりも近い当時の南朝鮮(現在の釜山辺り)に米を買いに行ったとされている。釜山の東は鉄鉱石の大産地であり、そこには当時日本人が多く住んでいたらしい。そんなことから「天皇は韓国から来た」という政治家もいるが、全く根拠のないでたらめな話だ。

百済と新羅

その時代の支那では五胡十六国の乱があり、北方系騎馬民族ら五つの人種が十六の国を作ったり滅ぼしたりして北支那は戦乱の渦中にあった。朝鮮半島の楽浪群や帯方郡などこの争いに巻き込まれた、小さな国はみな消えたという。

その合間を縫って高句麗が満州から南下して来た。彼らは平壌までやって来たが、南の方には百済と新羅がある。日本人が住んでいた地域を仼那と呼んでいたが、日本人は自分たちの廻りに朝鮮独立国が出来たので権益を維持するために抵抗したに違いない。しかし百済と新羅が力をつけてくると仼那も彼らに合併された。

朝鮮半島の歴史と成り立ちは「魏志倭人伝」「後漢書倭人伝」に出てくる。それによると百済と新羅による人種的な違いに注目すべきだ。新羅と百済は骨格も違えば性格も手先の器用さも言語も違う人種であった。筆者は朝鮮半島の民族の違いが地域感情を根付かせた要因と憶測する。

推測の域を出ないあやふやな歴史観

朝鮮の古代語は文献として残っていないが、百済語と新羅語は全く違う言語であった。かつて筆者と親しくしていた駐日韓国大使に朝鮮古代語が分かりますかと聞いたら「分かる」と言っておられたが、これは未だに嘘ではないかと思っている。ハングルが発明されたのは14世紀であり、それ以前はすべて漢文で読み書きしていた。日常生活も全て中国からの漢文であり古代語による文献はそのものがなかったと聞いている。

また「万葉集」を韓国人が作ったなどと言う韓国人がいるが、当時はお互い言葉も通じないのにあり得ない話である。韓国の近代史や歴史認識は捏造された歴史解釈が多いとされるのは推測と創作の域を出ていないためとの見方もある。

支那を模倣し続けた歴代朝鮮王朝

さて、支那は唐の時代に入ると、新羅が高句麗と百済と戦って朝鮮半島統一の野心を抱く。唐の二代目・太宗皇帝は天才的名将とされ、強大な軍事力を保有していた。新羅の政治家らはこの唐の力を借りるべく、国名も新羅と唐風に改め服装も元号も唐を模倣するなど、何もかも競って唐風に作り替えることで中国の皇帝に忠誠を誓った。

唐が支那大陸から鴨緑江の山を越えるのは難儀である。それゆえ最終的には海軍を使って黄海を横断せざるを得ない。新羅は唐の軍勢を楯に百済と高句麗を滅ぼし、朝鮮史の中で初めて朝鮮統一を成し遂げる。唐は高句麗を自分たちの属領として残し、結局、新羅は支那との堺界にある鴨緑江ではなく大同江までと区切られた。

しかし、唐が滅びると新羅も滅びた。唐から宋になり、高麗の時代に移ると高麗人が宋に出かけて宋に媚を売る。高麗の王朝は政権を手にすると新羅時代と同じく宋を模倣し続けた。そしてその宋が滅びて元の時代に入れば高麗でも元の元号を用いたのである。高麗が滅びたのち、李朝・朝鮮が五百年にわたって続くが、李朝・朝鮮も支那歴代の皇帝に仕えて国王を名乗った。

韓国社会特有の「孝」

朝鮮半島の歴史は、支那の歴代王朝を模倣する過程であったと言えよう。弊会時局コメンタリー編集長の山本新太郎は韓国の延世大学の史学科に学び、当時日本人として初めて同大学院の修士課程を修了した。彼に韓国の文化は何かと聞いたら、「支那思想・支那文化はコピーが多く、あえて言えばハングル文字が独自に開発した文化だ」と述べている。

ハングル文字は14世紀に発明されたが、役人の試験である科挙制度で使われるのは漢文であった。ハングルは試験に役立たず、当時の知識階級はハングルを馬鹿にして覚えようとしなかった。

科挙試験に合格することは地位と金持ちへの登龍門であった。韓国は儒教と家族制度の世界であったから、一人が偉くなればその親戚一同が恩恵を受ける。試験に合格し、偉くなって親戚中の就職を世話し、親孝行を行うなど周囲の面倒を見るのが韓国では「孝」の概念であった。

かつて、韓国のリ・エイリン将軍が軍司令官となって日本軍を攻撃しようとした。その前日父の死が知らされ、将軍は直ちに自宅に帰って三年間喪に服した。これは韓国では未だに伝えられている美談であり、韓国社会での「孝」の概念である。ちなみにわが国には「忠」の概念があるが、朝鮮修辞学に「忠」の概念はない。三省堂の現代国語辞典によると「忠」とは「王君に尽くすまごころ」と記されている。

次回は5月20日(木)

※「実録・朝鮮半島の真実」は3回にわたってお送りしています。