山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     朝鮮半島の史実を検証する (前編)

2010年04月28日

米国のマッカーサー元帥はわが国に対する歴史認識について米国議会で「日本は祖国防衛戦争を戦った」と証言。また、アジア諸国の大勢も「日本の植民地政策は近代化と経済発展の礎をつくった」と評価している。しかし、中韓の国内事情により、わが国から金と技術を引き出すための対日戦略として、事実と根拠を無視した政治的な圧力と歴史的断罪を繰り返して来た。

筆者はこれまで、弊会の活動を通して、韓国とは様々な交流を築いてきた。知己も元大統領をはじめ多岐にわたっている。韓国の歴史観に関しては幣会山本新太郎氏が韓国の大学院に学び、当時戦争を経験した世代に植民地時代の様相をインタビューした。本音では台湾と同じ良い時代であったとの意見ばかりで驚いたという。当時の朝鮮半島は経済力もなく、軍事力も無いに等しく、国として独り立ちできないことが国家の悲劇を招いた最大の要因であった。

松浦武四郎が指摘した竹島防衛の意義

わが国は幕末から韓国併合を重要課題として掲げていた。安政年間に松浦武四郎という伊勢の登山家が樺太半島に何度も足を運び、ロシアの脅威を実感し、「竹島史」という本を記している。ロシアは必ず竹島を拠点として朝鮮半島に出て来るとの危機感を持った。この「竹島」とは近年韓国に実質的に占拠された竹島(当時の呼称は岩島)ではなく、鬱陵島を指す。これを伝え聞いた長州の吉田松陰が松浦武四郎の下宿先を訪れ、鬱陵島に異常な関心を持ち危機感を同じくするに至っている。

吉田松陰は木戸孝充と村田蔵六(後の大村益次郎)に手紙を出して「朝鮮には軍隊がない。ロシアがこの島を取ったら次は日本に災難が降りかかる」と警告した。その後木戸孝充と大村益次郎らは幕府に建白書を出している。彼らは当時の李朝・朝鮮にこれらの島を守るよう再三にわたり幕府を通して嘆願したが聞き入れられず、結局明治維新後まで持ち越された。

ロシアが竹島を占拠

ロシアは江戸時代から虎視眈々と日本近海の島々を狙っていた。万延元(1860)年、ロシアは日本の対馬に上陸し占拠する。対馬は朝鮮半島とわが国に対する軍事拠点として好立地であるからだ。ロシアは対馬に防衛の要塞を築き始めたが、幕府は慌てふためくだけで、ただ事態を眺めるしかなかった。しかし幸いなことに、それをみかねたイギリス艦隊がロシア軍に撤退を勧告して事なきを得たのである。

明治7(1874)年、榎本武揚が樺太半島の交換条約のためにロシアを訪れた際、対馬を占領したロシア東洋艦隊の司令官であるプチャーモンに会った。プチャーモンは榎本に「対馬を取ろうと考えたのは日本海支配が目的だった」と述べている。ロシアが次に狙ったのが鬱陵島であったが、またイギリスがやって来て「この島を取るなら、我々はコブン島を占領する」と言った。ロシアはこの島も断念した。(榎本武揚回想録より)

当時日本を取り巻く近海は他国から狙われていた。当時の清朝も朝鮮に手出しはしないと言いながら、朝鮮半島に干渉している。ロシアは清朝をはじめ、朝鮮半島へのチャンスを伺っていた。

根底にある中華思想が生み出した誤解

明治維新の新政府が李朝・朝鮮に修好条約を結ぼうと使者を韓国に派遣した。これには天皇の名前を使ったので李朝・朝鮮が反発。彼らにとって皇帝とは常に支那の皇帝だけであったから、わが国の天皇は認めないのである。

中華思想を象徴する絵画として、中韓の寺院には建物の天井に龍の絵がよく見られる。中国は5つ、韓国は4つ、わが国は3つの龍が描かれている。これは中国が皇帝、韓国が国王で日本はそれ以下の民族、地位であるから、天皇名の使用を認めないというわけであり、。これが中華思想の本質である。

当時、わが国の副島外務卿が何度手紙を出しても李朝・朝鮮は日本からの使者の文書は受け取れないと断わり続けた。日本側としてはなぜ受け取れないのか理解できない。そのうち、わが国では「朝鮮は生意気で我慢ならん」となり、征韓論がはびこるようになる。そのあと日本が武力で江華島事件を引き起こすに到り、李朝・朝鮮が折れて1876年日韓修好(江華)条約が結ばれた。

大韓帝国の誕生

わが国が日朝修好条約を結んだのには二つの理由があった。一つは、朝鮮近海の島がロシアに取られたら、島国の日本は困ることになる。もう一つは天皇の手紙を受け取らないのはけしからんというわけだ。今でも韓国の新聞では天皇と言わず、平成王とか和王と言っているが、そんな名前は現実には存在しないので外交文書は別として新聞は全部国王と書いている。

当時の朝鮮半島は新羅の時代から独立国ではなく、すべては支那の皇帝にお伺いを立て指示に従う属国であった。たとえば高麗が滅びて1392年李成佳将軍が南北統一を果たし実権を握ると国号を決めるのに明の皇帝にお伺いを立てた。皇帝は「お前の国は東にある。東は朝の国、鮮やかな朝日だ」と言い、名前は「朝鮮」とし、首都をソウル(漢城)と命名した。

清朝時代になると、わが国の影響力が強まったが清朝は朝鮮半島を相変わらず支配しようとしたので、日清間で衝突が起こった。これが1895年の日清戦争である。わが国は清の勢力を追い出し、朝鮮半島は事実上独立国家となる。明治29年、李朝朝鮮は国号を大韓帝国と改め、国王は皇帝を名乗ることになった。

韓国併合

1894年、日清戦争はわが日本軍の圧倒的な勝利のうちに終わり、翌年4月、日清両国は英国の調停を受諾し下関条約を結んだ。
①清国は朝鮮を独立国として認める ②台湾は日本に割譲する ③2億円の賠償金を日本に支払う ④新たに沙市、重慶、蘇州、杭州の四港を開くーなどであった。いまもソウルの朝鮮総督府の真正面には当時の韓国の独立を記念する独立記念門正門の一部が残っている。

一方、1910年8月22日、日韓併合条約により日朝併合の調印が行われた。同日、韓国は地図の上から消え、日本の植民地となる。従来からの「韓国総統府」が朝鮮総統府と名称を改め、寺内正毅が初代朝鮮総督となった。

伊藤博文は最期まで併合に反対

伊藤博文は1909年に安重根という韓国の青年に暗殺されるが、死の直前まで日韓併合は日本の財政を圧迫すると考え、併合には反対した。韓国は保護領にし、日本は外交と軍事権を持てばよいと主張していた。しかし、反対派は「保護領だと内政干渉ができない」と併合を強行した(伊藤博文の暗殺は時局心話會月報5月号山本新太郎著を参照されたし)。

今から30年前、伊藤博文の息子である伊藤眞一氏が存命していた頃、伊藤博文と何度も朝鮮に行った話を聞いたことがある。伊藤博文は眞一氏に「日本人も悪いことをしているが、朝鮮の農村がいかにひどいか見ておいで」と語ったという。眞一氏は当時現地で特権階級の両班らの横暴な振る舞いに驚き、科挙制度に問題があるとの印象を強くした。当時は支那の古典を丸暗記する科挙試験に一度通れば両斑、貴族という特権階級となる。3代あとまで贅沢の限りを尽くすこの制度が韓国の腐敗と堕落を招いた。

なぜ韓国は併合されたか

かつては高い文化を誇った朝鮮半島であるが、この2千年の歴史は腐敗と堕落を繰り返し、朝鮮は日本の近代化に対して大きく立ち後れた。わが国では併合を強硬に唱える山県有朋や寺内寿一、併合に反対する伊藤博文に意見は分かれたが、今にして思えばどちらが正しかったのか。

歴史を考えるには「その当時の状況に自分を置いて考える」尺度や視点が必要である。韓国の併合はわが国だけが一方的に悪で韓国だけが被害者と断定できるものであろうか。なぜ韓国が併合されるに至ったのかという原因と背景がすっぽりと抜け落ちているのが両国の歴史認識を誤解する要因だ。

併合前の韓国は宮廷の腐敗、特権階級の堕落があり、財政は困窮し、反日親日の内部抗争が渦巻いていた。当時、韓国人民は悲惨な生活を余儀なくされている。当時の韓国にはまともな軍隊もなく、国家・社会が全く機能しない惨憺たる様相であった。日本、清国、ロシア三国による干渉を前にした外交不在は、植民地時代の餌食になるしかなかった。その後韓国は日本と米国と同じ価値観を共有する国家に成長した。今日の韓国発展は隔世の感がある。

※「実録・朝鮮半島の真実」は3回にわたってお送りいたします。この続きは5月13日(木)にお届けいたします。