政民合同会議

2018年3月7日 井上 達夫 東京大学大学院 法学政治研究科 教授

「立憲民主主義と安全保障」

 かつては保守対革新、現在はリベラル対保守というのが政界の対立図式とされているが、その前提が間違っている。リベラルを名乗る以上、権力を立憲主義的にコントロールすべきだが、いまの護憲派・自称リベラル派は立憲主義を裏切っている。

 リベラルが自由主義と訳されているのがそもそも誤訳で、リベラリズムの根本原理は正義概念だ。自由で民主的な社会であればあるほど人々の政治的価値判断は対立し、正義の具体的判定規準に関する「正義の諸構想(conceptions of justice)」も分裂する。しかし、それらに通底する共通の制約原理としての「正義概念(the concept of justice)」がある。その核心は普遍化不可能な差別の排除で、これは次のような反転可能性テストを課す。「自己の他者に対する要求・行動が、もし自分が他者だとしても、その他者も同じこのテストに服する限り、拒絶できない理由によって、正当化可能か否かを自己批判的に吟味せよ。」これは一言でいえば、「他者に対する公正さ」の要請で、政敵に対する公正さも要請する。

 正しい政策が何かは分裂対立する正義の諸構想に依存しており、議論したところで意見が収斂されることはない。それだからこそ、反対者をも拘束する集合的決定としての政治的決定が必要だ。これが「政治の情況」で、無政府状態にならないためには、反対者も政治的決定に対し「間違っているけれど、次の政治的競争のラウンド(選挙)で覆せるまでは尊重する」という態度をとれるような規範的権威を政治的決定が持たなければならない。この規範的権威は政治的決定の正しさという意味での「正当性(rightness)」と区別された「正統性(legitimacy)」だ。決定の「正当性」は対立競合する正義の諸構想に依存するが、その「正統性」の条件は共通の正義概念に基づいて設定される。憲法は政治の情況において、政治的決定の正統性を保証するルールだ。他者(政敵)に対する公正さがその基礎で、時の選挙の勝者が自己の権力を永続化させることを許さない公正な政治的競争のルールとしての民主的統治機構と、被差別少数者の人権保障が核心だ。これらは選挙の勝者が簡単に変えられないよう、改正のハードルの高い成文硬性憲法で固めなければならない。しかし、安全保障政策を含め、何が正しい政策かは憲法で固めてはならず、民主的立法過程に委ねなければならない。

 日本の立憲政治の最大の矛盾は、憲法9条2項で一切の戦力の保有と行使を禁じながら、これを死文化させて、世界有数の武装組織たる自衛隊をもち、安保の下で世界最強戦力たる米軍との共同防衛体制を敷いていることだ。憲法で固めてはいけない安全保障政策(非武装中立)を憲法に掲げ、しかも、これを公然と蹂躙している。

 改憲派は占領期政策のいいとこ取りをし、対米政治交渉力の欠如の穴埋めに九条を利用。「合憲だが自衛隊は戦力ではない」、さらには、いつまでも“違憲”の烙印を押し続けながら自衛隊の存続を主張し続ける――護憲派・改憲派双方とも欺瞞に満ちている。憲法を守れと言いながら憲法を裏切っている護憲派の罪は特に深い。

 護憲派は日本がベトナム戦争、イラク侵攻などで米国の幇助犯だったことも忘れ、「九条が戦後日本を平和国家にした」「九条にノーベル平和賞を」などとのたまう。九条違反の自衛隊安保が存在したおかげで日本は侵略されずに済んだのだ。

 九条が戦力を縛っているというのは全くの嘘で、9条ゆえに戦力は憲法上存在しない建前になっているため、文民統制や国会事前承認など最小限の戦力統制規範すら日本国憲法は定められない。その結果、日本の戦力は憲法の外で肥大し続け、その既成事実が積み上げられ続けている。この現状を打開するためには現行九条を削除し、新たに、戦力統制規範を盛り込むべきだ。9条削除論がすぐには受け入れられないなら、次善の策として、いわゆる護憲的改憲、つまり、護憲派も政治的に容認している専守防衛・個別的自衛権の枠内での戦力の保有と行使を明示的に許容する9条2項明文改正をして、戦力統制規範を憲法に盛り込む方向に進むべきだ。

 井上氏はリベラリズムを哲学的に研究してきた立場から、「日本のかたちが大きく変わろうとしているときには原理原則に立ち戻って考えることが不可欠」として具体的な憲法改正案に言及。「安倍改憲案が通りそうだが、九条二項を残しながら三項で自衛隊の存在を認めるといったところで、何も現状は変わらない」「自衛隊を戦力として明言したうえで、その戦力の統制規範を設けるべき」とし、長年続く不毛な憲法議論の早期収拾の必要性を強く訴えた。

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